YOSHITO ISHII:ROTRINGER'S DIARY

日日是匍匐:時時跳躍

言葉とその向こう側

不自由な日本語を使いつつも言葉の向こう側まで
想像させてくれる外国人がいるかと思えば、
ネイティブのくせに一語一意でしか言葉を扱えないような日本人も多い。


思うに言葉の上手さと知性とはあまり関連付けない方が良いんじゃないかと思う。
巧みなコミュニケーションに乗せられてると人を見誤りそうだ。
結局はその人の言葉の向こう側にある内面を、
こちらがどれだけ豊かに想像できるか、或いは想像させてもらえるか。

噺家って間違いなく頭の良い方々だろうけど、
必ずへりくだっていて
(それは勿論芸能=賎業とみなされていた時代の
名残でもあるのだろうが)
言葉の上手い奴=口先三寸で糊口を凌ぐ賎しい奴、
という伝統的な見方が反映されているのかも知れぬ。
社会的に軽い存在とされていたから口先三寸でも許されたのだよな・・



流暢な言葉はむしろ、固いプロテクトに似ている。
野球で守備が上手いのは良い事だろうけど、
言葉のやり取りに勝ち負けを言い出すのはやっぱり貧相だよな・・
そういう考えを採用した時点で失われるものがあるよ。


外国人の拙い日本語を理解しようと
一生懸命想像を膨らませるのは思いやりだろうけど、
実はその事で僥倖を得ているのは我等の方だ。
相手の内面を想像する機会というのはなかなかないもんだ。
その機会を与えられた事に感謝すべきではなかろうか・・

コミュニケーションのプロを名乗る人たちは
ここいら辺の事をどうお考えなのかしらん。
少なくともこのワシは、そんなプロだなんて名乗られた(知った)時点で
心を許せる自信がないよ。それだけで少なからずプレッシャーを感じてまう。
昔、大学で心理学の先生が仰っていた
「心理学者=読心術・催眠術使いではない」
と本当は同じ事なんだろうけど・・


だからなんというか・・
思うにプロフェッショナルを名乗る人はみな孤独であろう。
でももしそうなら、仮にコミュニケーションのプロを名乗って
その「プロの孤独」に陥る人がいたとして、
それはなんと皮肉な事か、とも思う。
人と繋がりたい、自分の思いを表現したい一心で頑張った結果が
孤独じゃあねえ・・



とは言いつつも、都市生活では言葉を鍛えないとやっぱり厳しいんだろうなァ・・