ラッセンを愛する人がいて、何が悪い。

手塚治虫さんという人は偉い人で、
子供たちが居間のテレビで「ウルトラQ」を見ていて、
それを気まずく思った奥さんが「鉄腕アトム」に
チャンネルを変えようとしたことに対し、



「子供たちの好きなものを見せてやれ!」・・と、
したたか怒鳴りつけたのだそうです。




今回ツイッターで奈良美智さんが、
「ラッセンと自分の作品、両方とも好きという人が多いようなら、
作品を発表することを少し考える」・・・というような内容のツイートをして、
波紋が少し?広がったようですが、




自分は正直、「奈良さんケチくせえな」という印象を持ちました。




この、ラッセンやヒロ・ヤマガタへの批判、というか嫌悪感は、
もうずいぶん昔からアートの世界に燻り続けているのですが、
実際それらを聞いている限り、
殆どステレオタイプの域を出ていないように思います。

「金の亡者」「商業主義」「俗悪の極み」・・・

これらの言を否定はしませんが、
「だったらなんだよ、どんな絵を売り買いしようが彼らの勝手だろ」

と、自分は思ってしまいます。




自分がそもそもそういった批判に違和感を持つに至ったきっかけは、
ひとえに批判の「足並みの揃い方」でした。
自由を標榜しているはずのアートの世界にも、
同調圧力、日本独特の「空気」が、ちゃんと存在しているということ。



たとえラッセンの作品を俗悪の極みと自分達が思っているにせよ、
彼の作品をきっかけに、美術に興味を持ってくれる人が一人でも出てくるなら
それでいいじゃないか、と思います。


商業主義?金を稼がずに生きていける人間が、この世のどこにいるというのか。
そもそも日本の美術家の誰もが(彼らほどバブリーではないにせよ)
「作品でメシを食う」ことを、
心の奥底で渇望しているはずではないのか。





お金を稼げなければ仕事を続けていけないことは、
アート(美術)とて、全く例外ではありません。
他のジャンルならば、プロフェッショナルとして当然の前提となり得る



「その生業で生計を立てられているか否か」が、



どういうわけかアートには適応されず、
(大多数の作家は他の仕事の収入で食いつないでいるわけですが)
むしろおおっぴらに語られることさえ殆ど忌避されてきた感があります。
(クローズな空間では当然語られてきたでありましょうが)

そういったジレンマを逸らしたいが故のラッセン批判、ともいえるのではないか。
本来ならば、たとえどんなに生臭く惨めな話であっても、
作家一人一人が自分の事として、逃げずに考えねばならない問題のはず。



他でもない、自分の制作をなんとか安心して続けてゆく為に。





ポップアイコンとして奈良さんとラッセンを並べて飾る人がいたところで、
それはその人の受け止め方・感性の話であって、
作家でさえ、いちいち指図できるようなものではありません。
(死んだら一緒に作品を埋めろとか、そういう無茶なこと言うコレクターならまだしも)
またそのことで、奈良さんの作品の質が下がる、などとも自分は全く思いません。
彼の作品の真意を汲んでくれる人がひとりでも他にいるならば、
もうそれだけで充分ではないでしょうか。





受け手は自分の好きなように、美術作品を受容すればよいのです。
たとい人から何を言われようとも。





とにもかくにも、手塚さんのような度量の広さが、
アートの世界にも、もっとあって然るべきだろう、
というのが、自分の率直な感想であります。



追伸

わたくし自身、今現在ラッセンが好きかと問われれば、
特に好きでも嫌いでもありません。

ただ、自分が何もわからぬ片田舎の高校生であった10数年前、
いかにも「閉じた」感じの、
若手作家のアイロニカルなパフォーマンスが載った美術手帖よりも、
多くの人を喜ばせているラッセンの作品の方が、
はるかに魅力的に映った時期があったことも、
また偽らざる事実なのです。


ラッセンも岡本太郎も横尾忠則もスーチンもモディリアニもポロックも、
全部好きだった、片田舎の高校生でした。




(・・久々に更新したら、ちょっとトサカに来てしまいますた・・)



さらに追伸

「ウルトラQ」の裏でやっていた手塚治虫の番組は
「W3(ワンダースリー)」という番組のようです。失礼しました。